stormy97’s diary

あわよくば人に勧めたい、作品の紹介と感想

一現役生による、動物実験に関する考え

19/1/6追記

 

私は動物が好きだ。物心ついた頃からずっと、様々な種のペットを飼ってきた。人よりよほど動物の方が好きだし、人が動物より秀でているとも思わない。

しかし私は現在動物を殺し・利用する立場にいる。(医・理系の実習を想定してほしい。)

考えを正当化したくなく、あやふやなまま適当に行うことも避けたいので、現時点で何を目的として、何を考え、何をすべきか、把握しておきたいと思いここに記す。慣れる前の考えを覚えておきたいというのもある。

 

似たような悩みを持つ人を探したが、意外にも生の声は少なかった。これから進路を決める上で、あるいは現在行なっていることに関して、動物実験に悩む方々がいたら、少しでも参考になればいいと思う。

自分は、誰か似た考えをもつ経験者からの、意見や助言が欲しいと今も思っている。

 

している事をぼやかす言葉使いもしたくないので、この記事では「殺す」等きつい言い回しがあることはご了承頂きたい。

 

 

まず自分の元々の倫理観として、生きるために殺すことには罪悪感を感じる必要がないと考えている。(実際に感じないかは別として)

具体的には採食の際と、襲われた際の二シーン。

それが自然の摂理だと思うからだ。

 

しかしこれらもそうある事ではない。

ここに新しく、なおかつ比較的高い頻度で殺すシーンが加わった。

動物実験だ。

前者と異なり、これはしていいとは言い切れない。前者以外の場合では、殺すことを極力避けてきた私は、今、動物実験をすることを選択している。

 

なぜ動物実験をするのか。

良く言えば学ぶため。直接的に言えば好奇心からだ。

知識があれば、より身近なものへ適切な判断をし、助けることができるかもしれない。今後、更に多くの者を、救うきっかけとなるかもしれない。そういう期待もある。

しかしそのためにと信じて行っているわけではない。私は信念ある功利主義者ではないし、高尚な目的とすり替えようとも思えない。

正当化してそれが崩れた時のダメージは、そのまま受け止めていた時以上と想定されるから、しないようにしている。

 

動物実験反対派には、代替品を提唱している者がいると言う。経験則だが、実物を見ることと代替品を見ることには差があると思う。さらに実物を見る経験は珍しく、貴重であり、かつインパクトがある。それだけに、記憶に残る。

だから、本物を解剖する機会があれば、これからも、参加したいと思うだろう。

 

一つ、絶対に勘違いすべきでない点は、この経験を今後に生かしたからと言って、既に殺した動物のためにはならないということだ。

命を絶たれた事実も、苦痛が存在した事実も変わらない。

その経験を生かせば死んだものも報われるという考えは傲慢だ。

 

 

 

次に、実際の事を書く。

まず、精神面について。死んだばかりの動物を見て、その温かさを感じて、さらにその体にメスを入れる事に苦痛を感じないかと言えばそんな事はない。

ペットとして飼ったことのある種など尚更だ。

しかし、一度やってしまえば慣れる。それも一度目でも、開いてしまえば、もうそれは資料として目に映り、平常心で観察を続ける事ができた。どこを切ることも、グロテスクとすら感じなくなる。おそらく。

むしろ、これから解剖する動物を前にして、かえって早くメスを入れてしまいたいと思うことも多い。入れれば諦めがつくから。形があるのは苦しい。

この慣れを受け入れるべきなのかは今もわからない。正直に言って慣れたくはない。しかし、この慣れは、冷静に観察するという目的に適っており、かつストレスを減らせるという理由で受け入れている。

 

それから、学習について。

身になっていると感じることは多い。
解剖の仕方が身についた。どの深さまで刃を入れれば、どの強さで引けば、内臓を傷つけるのか。出血するのか。

それに、半年前には肉塊にしか見えなかったものの中から、脂肪、膜、筋肉の見分けがつくようになった。つまり、傷つけてはいけない部位が判断できるようになった。

判断がついたために、今では傷のない状態で観察することができる。

また、この手指の感覚は、応急処置などに生かせないだろうか。


生き物の体内構造が理解できた。

ペットとして飼っている動物の構造も頭に入り、今なら外から見ても、病変部がある程度察しがつく。早期発見に役立つだろう。

 


また、精神面と併せて、今、目の前に食べるための動物が、例えば鶏が置かれたのなら、捌いて可食部を取り出すことができるだろう。食料を得る上で、これは身につけて良かったと言える実用的なスキルだと思う。

 

 

 

現在の結論としては、既に死んでいるものに対しては解剖に躊躇はしない。解剖しようがしまいが、生死は変わらないのだから。脳の活動が止まっていれば痛覚も失われている。

萎縮せず、冷静でいることで、吸収できるものを全て吸収しようと思う。

無駄にしたくない、目的を達成したいという自分のエゴのためにだ。

ここで逃げる事は知識の吸収を妨げ、資料を無駄にするデメリットはあれど、何の意味もない。

また、前述した代替品と実物に関して、インパクトと実感のために実物を求めるとしても、それは一度で十分だ。二回以降はそれこそ代替品で良いと思う。

同じ目的で二体の動物を犠牲にすることは、自分の感覚では「無駄」であり、それは避けたい。その為には、一度目で十分に知識を得る必要がある。

 

これらを念頭に置き、今後も一度ずつは、動物実験を行うつもりだ。

 

 

 

まだ残る問題として、今生きているものを手にかける事がある。

これは、自分は未経験であり、かつすぐ後数日後に迫っていることだ。これがこの記事を書いているきっかけでもある。

 

死んでいないから仕方なくはない。しかし、発注済の動物を自分が殺さない選択をしたとして、その後生かせる可能性は低い。殺処分が義務付けられていることが多いからだ。

だから、手元に来た動物に関しても、前述した事と同じ選択をするだろう。つまり、躊躇わず冷静に観察しろということだ。

 

長い目で見たときに、殺さないで済む動物は増やせないだろうか。管理会社のシステムが知りたい。

注文数が少なければ、残りの動物は生かされるのか?あるいは老いたら処分されるのか?

終わりが決まっている限りは、活用できるタイミングで解剖する事を「するべきでない」として全力で反対することは私にはできないだろう。

終わりが決まっていない場合、あるいは終わりを遅らせる事が動物にとっての幸せであるとわかる場合には、この判断が更に難しくなる。

ここについては、まだ調べてから結論を出したい。

 

 

1/6 先日、生きているものを手にかけた。(届出済みの実習として。)

感覚としては、目にするショッキングな場面は増えるものの、精神的負荷は、そうでない解剖と変わらない。

客観的に見ることは可能である。

これは、人にも備わっている防御機構の結果だと考えると特別異常なことではないだろう。

ただし、可能だから動物を犠牲にしていいという事にはならない。

より一層、感情を基準とせず目的を誤らないよう反芻し確認していく事が必要だと感じる。

 

 

まとまっていない文で恐縮ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。