『沈黙』感想
遠藤周作の『沈黙』、映画化であらすじを知ったのですが、異端審問と神の沈黙がテーマと聞き気になって読みました。
イワンカラマーゾフに通じるテーマ…。
以下では、キリスト教に疎い者が勝手に色々と述べているので見ようによっては不謹慎かもしれません。またネタバレあり。ご注意を。
この本には、客観的な章と主観的な章があって、客観的な章は私は退屈に感じてしまうので読むのに時間がかかった。言葉遣いも時代相応のものなので、読解できないこともしばしば。
ノンフィクションや時代小説も私は得意でないので、そういうのがお好きな方は読みやすいかも。
もう少し知識をつけてから再読するといいかもしれない。
対して主観的な章はドラマチックで、主人公の思考の流れに興味が引かれ、ぐいぐい読まされた。
特に、彼への棄教への説得が本格化するp166以降は怒涛で、終わりにかけてなんとも言えないカタルシスがあり、すごく良かった。
フェレイラ神父の登場シーンや、ガルペの最期のシーンが印象深い。
全編通して書かれるのは、ロドリゴという宣教師が揺れる様。
彼は敬虔なキリシタンで、最後まで形上であってもキリストを売りたくはないと、どんな目に遭っても神を信じて毅然としていることこそが大事だと考えている。
彼を通してキリスト(教)へ問いかけられる問題は以下。
(興味深かったので、主張をメモした。ロドリゴ、討論相手)
・異国へのキリスト教の布教は善か、押し付けか。
→善は普遍的なのだから、全国に知らしめることが大事だ。信徒は誇りを持って殉教した。これは酷いことではない。
→押し付けだ。日本には日本に適した教義がある。無理に布教することは、不要な日本の犠牲者を増やす迷惑行為だ。(井上)
・宣教は可能なのか。
→可能だ。不可能なら、それは信心が足りないのだ。根拠は殉教者がいること。
→不可能だ。日本は人でない神という感覚の根付かない不毛の地だ。例え日本のキリシタンが増えても、それは彼らが勝手に解釈して歪めた、教会が元々言っている信仰とは別物になっている。(フェレイラ)
・全ての人を愛するはずのキリストは、なぜユダだけ追放したのか。
・信仰を貫けない弱い者(キチジロー)はどうすれば良いのか。
・信徒の受難に、なぜキリストは救いの手を差し伸べず「沈黙」しているのか。
多様性を認めた上で、自分らには必要がないと言う井上の主張は真っ当に思えた。
でもそれならば、なぜ日本に多様な宗派を存在させることは認めないのだろう?と疑問。各々違う価値観があると思うなら、国で線引きしなくてもいいのに。
ただロドリゴを棄教させるための心にもないことだったのか?時代が許さなかったのか?
また今まで、宗教の対立は多様性を認め合えばそれでいいじゃない、と考えていたのだが
普遍的でない、という事自体ある信仰に関しては反するものだから、それでは解決できないのだなと知った。←最近読んだ『メタ倫理学入門』も参考になった。
これら諸問題は、ロドリゴを揺さぶる。
その最終局面で、棄教を勧める言葉が
(信仰に背いたなら(踏み絵)、今すぐ側で苦しんでいる人々を解放する=救えるという場面)
「今まで誰もしなかった一番辛い(最も大きな)愛の行為をするのだ。お前は裁きを受け、教会から追われる身になるだろう。
だがもっと大切なことが成せる。」
なんですよね。何か思い出す選択で頭が痛いぞ〜〜🤜
「一番辛い愛の行為」という表現があまりにも刺さった。裏切ることで本懐を成せる時もありますね。
ここで踏むことを選んだロドリゴには、私は賛同できる。作中で他の者が言うような言い訳ではなく、ちゃんと目的を明確化し、その為に必要な道を選んだように見える。外面や意地に囚われなかった。
希望が失われても夢を失わない人いいなと思っちゃうんですよ。
ところで彼は頑なな教徒に見えて、初めの方から、信仰より自分の命をとれ(意訳)と信者に願ったり、キリストに疑問を感じたり、そういう発想に至る素質はあったと思う。
もう一つ特筆する点は、彼はキリストを棄てはしなかったこと。
神は沈黙しているのではない、共に苦しんでいるのだ。キリストはこの選択を迫られたなら棄教し人を救うことを選んだはずであるし、人を救うために自己を踏めと言うだろう。自分もその本当の理想に倣うべきだと考えたんですね。これは本質を汲み実行する事であり、信仰を棄てた事にはならないと。
これ、『カラマーゾフ』のプロとコントラでは天上のパン(≒拷問されている信徒達は、「地上の苦しみの代りに永遠の喜びをえる」はずだby踏む前のロドリゴ)をごり押しするキリストサイドは理解できなかったんですが、ここでそれが否定される形で描かれていた、神の理想は自分にも理解できる。
このロドリゴの考えは、作中で教会の考えから外れた(日本で腐った)と言われてもいたけれど、どっちが本来のキリスト観に近いのだろう?
まあただ、こう結論はしたロドリゴも気持ちは理屈で説明できるものではなく、憔悴していたようだから、この後彼がどうなってしまうのか気になるな。
あとは、ロドリゴがキリストに、彼は正しい人だと希望を感じている描写が良かった。
「辱めと侮蔑に耐える顔が人間の表情の中で最も高貴である」
彼から思い描くキリストは、いつでも清く美しい。
こういう関係において、正しいと信じたいものを疑いそうになってしまう瞬間の、葛藤や罪悪感、相手への信じさせてくれという懇願やそれが裏返しとなった怒りなど、生じる激情は良いですね。
この辺りが崇拝対象と信仰者の関係…例えば『駆け込み訴え』のあの人とユダ、『カラマーゾフの兄弟』のイワンとスメルジャコフ、『リプリー』のディッキーとトム…で好きな所です。
他にそういった作品があったら知りたい。
↑駆け込み訴え収録 |