stormy97’s diary

あわよくば人に勧めたい、作品の紹介と感想

『ライ麦畑でつかまえて』の感想-崖から落ちるとはどういうことか-

18/12/28 BANANAFISHとの関連について に追記

 

J.D.サリンジャーライ麦畑でつかまえて

BANANAFISHのアニメに引用されていたことをきっかけに、名作と聞いていつかは読みたいなーと思っていた事もあり、この機に!と読みました。

 

日常的な話で文も語り口調で難しくないので、わりとさらっと読めます。自分は一週間くらいで読了。

 

小説の感想と解釈、それからBFとどのように関連していたのかについて考えたことをちょろっと書きます。


ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

感想と解釈

さてライ麦畑。話自体にはこれと言って起承転結はなく、主人公の少年の成長物語でもない。

ならば何が描かれているかというと、ずーっと思春期(も終わりに差しかかり)の少年の心のうちだ。

 

内容は、だいたい少年の周りの出来事への感想とグチと、彼が妹に語った一つの印象的な台詞から成っている。

p269 何千という子供達がライ麦畑でみんなで遊んでいる。あたりには大人は誰もいない。子供は走ってる時にどこを通ってるかなんて見ないから、自分は一日中危ない崖の淵に立って、そこから転がり落ちそうになった子供を誰でもつかまえる。

自分はそういうライ麦畑のつかまえ役になりたい。(意訳)

 

 

言葉で説明を与えて考えるというよりは、感覚的に抽象的に捉える小説、という印象。

 

主人公ホールデンは社会の全てに嫌気がさしている。けれどこれといって決定的な意味がないこともしばしば。でも嫌な事は本当だ。

そういうインチキな事を全て放り投げて、どこかに逃げ出したい。

そういう思春期のもやもやと勢いを、ホールデンは失っていない。

そういう感性を今正しいと感じていることも、いずれ失うことも、失うことを恐れる気持ちも持っている様子。…この「今正しい」と思う感性を持ち続けたいという気持ちは理解できる。

 

例えばそれをホールデン的、と言うとする。

ホールデン的だと社会には適合できない。そういう気持ちに折り合いをつけて、なんでもない事を楽しんだりしているのが、社会なのだから。

実際彼は学校をドロップアウトしている。

そのままでは居られないと知りながらも、自分のそういう夢想を堂々と語らずにはいられない所が、この本が中二病っぽいと言われている理由なんだろう。

 

ホールデン的な人=ライ麦畑で遊んでる子供なのかな?ここはわからない。

けど、ライ麦畑には大人はいないんだから、ホールデンが子供の世界側にいるのは間違いないか。

とすると、「崖から落ちることは、子供でなくなること」と考えていいんだろうか?

 

こういうテーマ的なところで、すごく似てる気がするな〜と思ったのが『おやすみプンプン』や『惡の華』でした。両方漫画ね。

そう思うとボードレール悪の華ライ麦畑みたいな話だったりするのかな。

 

ホールデンが逃避行しようと思い立つあたりからもこれらを強く連想した。ただ、プンプンは実行したけどホールデンはそこまでできなかった。

ひょっとすればやってしまう勢いだけはあるけれど。

しようとして、でもできない。悪い言い方をすれば口先だけ。こういう所はイワン(カラマーゾフの兄弟)にも通じる気がする。

 

熱病に浮かされたような喋り方、突然の全能感、すべてデタラメのように感じて突飛な行動を起こしたり激昂したり…中盤読んでる途中、そういう所がミーチャ(同上)に似てるかな?とも思ったんだけど、ミーチャほど破滅しきる素質は持ってないから、そこまで似てはなかった。

 

…話が逸れました。

あとは、シーモア(バナナフィッシュにうってつけの日)に話しかけた少女のように、ホールデンには妹フィービーと、
また隣に幼い女の子がいたことも印象的だった。
破滅に向かう青年をまともな世界側にかろうじて引き留める役だったりするのかな。
他のサリンジャーを読んだらわかるだろうか。


ライ麦畑でつかまえて」って誤訳らしいですね。元ネタはロバートバーンズの詩『ライ麦畑で会うならば』だし、
→歌詞 故郷の空 Comin thro' the rye 歌詞・日本語訳
原題『The catcher in the rye』の直訳は『ライ麦畑の捕まえ手』
つかまえて(願望)と捕まえ手のダブルミーニングだと思うと、ホールデンの心のうちを映しているようで面白い。
どの段階で「つかまえてほしい」の意味がでてきたんだろう?

 

 

なぜこの本がBANANAFISHに引用されたのか 

BANANAFISHラストのネタバレあり


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BFのエンディングではライ麦畑で笑うアッシュと英二の姿が映り、最終話のタイトルもまたライ麦畑でつかまえてだった。

大人と子供の境界?思春期の繊細な感性?ライ麦畑でつかまえてのテーマに見えたこれらは、関係ないとは言わないけど、どちらもBFのメインテーマとするには、あまりしっくりとこない。

そこでもう少し抽象的に「ライ麦畑の子供」に主人公アッシュを重ねて考えると、二つの解釈ができると思う。


Ⅰ.アッシュは崖から落ちた子供
ライ麦畑で崖から落ちるということは、折り合いをつけること考える。
アッシュはホールデンと同じく、折り合いをつけて生きることはしたくなかった。
問題にけりがつき、手紙で満足を得て、そういう「意地」以上に大事なものを見つけて、折り合いがついたアッシュは、ライ麦畑で生きることはもうできず、崖から落ちていき死亡した。


Ⅱ.アッシュは崖から落ちなかった子供
ホールデンからしてみれば、ライ麦畑で崖から落ちることは人でなくなること。もしくは無邪気なまま破滅することと考える。

そんな子供をつかまえられるのは、ライ麦畑側に居る者…つまり無垢な者だけである。
アッシュは崖から落ちそうな子供で、捕まえてくれる者を求めていた。
そして、作中での無垢の象徴である※英二につかまえてもらったおかげて落ちずにすんだ。
同時に彼は、自らもそんな子供を捕まえて暮らすような優しい生き方を望んでいたかもしれない。

※「大人から搾取され続けてきたアッシュが救われるには、無垢な部分を残し童貞の英二でなければならなかった」という完全ガイドの記述より。

 

また、終盤ホールデンを諭すアントリーニ先生の話すことが印象的だったのだけど、これらはすごくアッシュにも当てはまる気がする。

君がいま、堕落の淵に向かって進んでる(中略)堕ちていく人間には、さわってわかるような、あるいはぶつかって音が聞こえるような、底というものがない。その人間は、ただ、どこまでも堕ちていくだけだ。世の中には、人生のある時期に、自分の置かれている環境がとうてい与えることのできないものを、捜し求めようとした人々がいるが、今の君もそれなんだな。いやむしろ、自分の置かれている環境では、探しているものはとうてい手に入らないと思った人々と言うべきかもしれない。そこで彼らは捜し求めることを諦めちゃった。実際に捜しにかかりもしないであきらめちまったんだ。

 

「ウィルヘルム・シュテーケル曰く『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある』」(意訳)

同じ彼が言ったこの考え方も好き。

 

 

最後に

最初に起承転結がない、と書いた通り、正直内容は退屈に感じる部分もあった。

読み終わってから、作者は何を言いたいんだ?とも思った。

しかし、こういう言葉にしずらい感性をリアルに写し取っているところがこの本のすごいところなのだろう。

また、そういう説明できないことを例える言葉…「崖」ライ麦畑から落ちそうな子供」…を知れたことで、読んだかいがあった。

こうして今、ブログに起こすにあたって色々考えていると、じわじわ、この小説はとても面白いなという気持ちが強まってきている。

 

 

 


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