stormy97’s diary

あわよくば人に勧めたい、作品の紹介と感想

公共の秘密の話。『『わたしを離さないで』を読む』

『「わたしを離さないで」を読む』
この本はカズオイシグロ「わたしを離さないで』を巡る評論集だった。
『わたしを離さないで』は好きな作品なので、興味を持って読んだ。

専門家による評論集のためか、理解にはある程度の前提知識を必要とするものが多い印象。
特に一章は、元ネタの文学を知らないとすっとは入ってこない比喩表現も多い。
逆に二章は易しい和文で単体でも読めるものが多い印象だったので、こちらから読むのも良いと思う。

恥ずかしながら自分はカズオイシグロはこの一作しか知らないのだけど、この評論集だけで、カズオイシグロの作風や、立場、作品に凝らされた工夫や演出、登場人物の心理など、多くの事を知れたので、『わたしを離さないで』がお好きな方は一読の価値があると思う。


興味深い内容だったので忘れないよう、下の方に各章の要約を書いた。文学に疎い者が勝手に書いてるものですがよければご参考まで。


この本の中で興味深かったのはロバート・イーグルストンによる「公共の秘密」の章だ。
ここでは『わたしを離さないで』のヘールシャムをホロコーストでの強制収容所になぞらえて、そのような虐殺を成り立たせる要因が語られている。
それこそが被害者(クローン)にとって、真実を「教えられているようで教えられていない」状況を作り出すことだった。
そのような真実が公共の秘密と呼ばれているようだ。


この章は、事前に、言葉によって戦争を操る方法が書かれた『戦争広告代理店』を読んでいたことが、読む上で理解の助けになった。

ところでこの「公共の秘密」最近どこかでも出てきた。どこでだったかな…公共の秘密は言い伝えていくのが難しく、正しく歴史を語り継ぐにはそれを伝える方法を考える必要があるといった内容だったはずだ。

 

p126 「提供者」や「使命」、「彼ら」といった表現は、私たちが知っていて共有している情報を提示し、同時に、私たちが明らかに知っていることになっているが実際は知らない情報を提示する(=公共の秘密を明かす)ことで、わたしたちを共犯者にする。しかし何と共犯してるのかは読者にはまだわからない。

これらの言葉は、「民族浄化」に似ていると思う。
戦争広告代理店の表現を借りれば、流通しやすい言葉なのだろう。流通するから、本質に深く触れる事なく、容易に公共の秘密として広まる。

そしてこれがきっと、不条理な世界を生きてるフィクションの登場人物に感じる罪悪感の正体なんだろうな〜と妙に納得。地の文を読める読者は公共の秘密を知ってるので、彼らを苦しめる原因の共犯者側にいるわけだから。

 

公共の秘密は犠牲者を、自分自身の虐殺の共犯者にする。犠牲者に、自分が無実だとは考えられなくする。

 

公共の秘密は集合的な記憶と差異を作り、分断された世界を作り出す。

 

p131 古代ローマの奴隷は制服を着せられなかったが、それは彼らが自分たちの数の多さに気づいて暴動を起こすのを恐れて。


他にも、ヘールシャムはHail Sham…「紛い物万歳」の意味であることや、ナチスでは、ユダヤ人によってユダヤ人を焼却処理させるゾンダーコマンドーという特殊部隊があったことも衝撃的だった。


また、『わたしを離さないで』では、時制の書き方に工夫があるとも書かれていた。 

歴史家アロン・コンフィーノ 自分の仕事は、「過去に精通することではなく、現代の出来事や主体的な経験を形成した時期の歴史的感覚を説明する方法を見つけ出すこと」


タイトルにした「公共の秘密」だが、このワードを聞いた時、ハッとした。

自分は「ディストピアっぽい」話が好きなのだが、自分にとってのディストピアらしさを感じる要素はまさにこれじゃないかと思ったのだ。
NO.6の階級分けのシステム
虐殺器官の良心を麻痺させる技術
秘密のMRI捜査の倫理的問題点
NARUTOのうちは一族の差別
(実際最後は全く一般にいうディストピア作品ではないのだが)直感的にディストピアじゃん!!と感じたこれらは、どれもこの要素を含んでいる。

 

このテーマは私にとって興味深い。
良いことを知った。
今後は作品や解説書を探す時、「ディストピア」というくくりから更に絞って、このワードを使ってみよう。

カズオイシグロの他の小説↓でも、このテーマについて語られているようだから、近いうちに他の小説を読むべきだろうな。


遠い山なみの光』『浮世の画家
国家や共同体の歴史、罪や共犯が扱われている

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忘れられた巨人
暴力や破壊について共同体が忘れてしまうことの利益、危険性、その不可能性について考察されている。

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こちらも気になる。
コンラッドの『闇の奥』
虐殺や共犯、その中核にある秘密の関係を隠蔽し暴露する奇妙な文体が登場

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他の章について要約メモ

「生に形態を与える」マークジャーング
クローニングは個体化(世界から解放されたりして、人が人生の中で内的に成長することで、完全な人間に生成変化)する事を妨げる。ただし、「わたしを離さないで」では、固体化の可否と人間とクローンの違い(…人間性の根拠)を結び付けない。
この物語での人間性とは、終わりの地点を「完全に実現された」生の到達点と見なすことを拒むもの。

 

「気づかいをもって書く」アン・ホワイトヘッド
ケアを巡る問題、人間とクローンの違いと、ケアがどこまで行き届くのかの限界と、「手離す」こと


↑これら二つは自分には難解に感じた。
理由として、たぶん自分は認識論と相性が悪い。化学構造が同じ人間とクローンの違いがあるいう考えが馴染まない。これらを理解するには、もっと入門編から読まなければならないかな〜

「薄情ではいけない」ブルース・ロビンズ
介護人という言葉や、介護人としてのキャシーの冷たさ、自分も提供者になる実感のなさ。上昇移動(仕事上の昇級?)と福祉国家の問題。
階級は人間を分断する。
上昇移動物語を支えているのは、自分は人間であり未来があると信じられていること。(→傲慢さを指すのかな)

 

「時間を操作する」マーク・カリー
クローンたちが境遇に抵抗しないのは、相対的剥奪(普通に考えたら自由の剥奪されている寮生活(閉鎖空間)で、自由時間が伸びる事(少しの拘束緩和)を自由(特権)だと感じるようになるような現象)による。
また「忘れていた」という事を描くには、忘れていた時制とそれを思い出した時制との両方を描くことが必要。更に思い出した事を過去として描くには3つの時制が必要。先説的過去完了(↔︎後説法(フラッシュバック))というこの小説での時制の描き方の特徴がそれを可能にする。
この特徴的な時制が読者を過去と未来の共存する場所に置き、それらの区別をできなくさせる。また、未来はすでに存在するものとして逃れられない(抵抗できない)ものとして決定している。

 

「看る/看られることの不安」荘中孝之
ヘールシャム→コテージ→介護人→提供者 は、人生の幼年、青年、壮年、老年期という一般人の人生ステージに重なる。臓器が一つずつ失われていく提供者は老人そのもの。もしくはクローンらは搾取される社会的・経済的底辺層の人々の比喩。
「わたしを離さないで」の世界は不平等だがシステム化され効率的であり、現代の介護の問題を解決する要素も含んでいる。

 

「『わたしを離さないで』における女同士の絆」日吉信貴
キャシーとルースの絆は、1人の女性を巡って争う男同士の絆と同様である。(異性は交換可能で象徴的な財である)
ルースはトミーではなくキャシーに執着している。
経済的・生殖に関する立場上、女性でこういったことは起こりづらいのだが、わたしを離さないでのクローン達にはそういった性差がないため、こういう事が起こりうる。

キャシーとルースの関係性って俗な言い方すると百合っぽい。その理由を説明してくれるのがこの評論だった。なるほどな〜という思い。

 

「「羨む者たち」の共同体 」秦邦正
『わたしを離さないで』には、羨む者↔︎羨まれるものという構図が頻出する。
ルースの方がキャシーより「羨むに値するもの」という前提が、彼女らの絆を作っているが、それはキャシーの羨望の演技により成り立ったものでありルースの罪の告白は、それへの返礼でもある。
羨望を受けたものは、その望ましいものの真実性の検証をすることになる。
読者はキャシーから羨まれるもの(一般の人)であると同時に羨むもの(ヘールシャムを羨む他の寮出身の提供者)である。

 

「『わたしを離さないで』に描かれる記憶の記念物の手触りを巡る考察」三村尚央
記憶の記念物…カセットテープには、その実用的機能と、思い出と結びついた象徴的な機能の両方が存在する。
これは展示会の作品(状況の改善のために魂の存在を外部に証明するもの/内面を示すもの)や、クローン自身(臓器の器/魂をもつ人間)も同様だ。ここで交換会が、臓器提供を暗示していることになる。
この作品では実用的機能が重視される傾向にあるが、そういったものが象徴的機能を果たすための条件は、実用的な機能や序列化という使用価値から外れることだ。

 

「『わたしを離さないで』におけるリベラル・ヒューマニズム批判」田尻芳樹
芸術は本来自分の状況を認識し疑問視する事と結びつき、人を人間的にする役割を持つが、『わたしを離さないで』では、それらが二項対立的に(エミリ先生↔︎ルーシー先生)描かれており、前者は失敗(形骸化した虚無なものとして描かれ)している。それは真実が過酷すぎて、または知るのを禁じられているせいでクローンらの疑問視が不可能なためである。
→リベラルヒューマニズム(=前者の肯定?)の批判(キャシーの芸術教育の成功を、作者がメタ的にも示唆したがってないことから、その立場は明らか。)
ナチのテレージエンシュタット収容所では芸術教育がなされていたが、ここではそれは子供らに精神的自由を与え現実を耐えやすくしていた。(空間・時間が制約されていた事が勝因)
また、『わたしを離さないで』においての芸術は、既に芸術本来の使い方をされてない(道具になってる)、芸術は現実から目を逸らさせる、共同体に依存させる、創造性のみを価値判断の基準とする、搾取に慣れさせる(グローバル経済のメタファー)などの面からも批判されているようだ。
エミリ先生はクローンに寄り添うようだが、実際は自己と線引きしており外部から関わる人種差別主義者。

 

「クローンはなぜ逃げないのか」森川慎也
「人は経験や所属によって思考の枠(ハビトゥス)が作られており、その中でしか思考できない(ドクサ,信念)。それらを俯瞰し枠を外れた判断をするような超越的視座(≒大きいパースペクティブ)はなかなか持てない。」といったパラダイムが執筆当時にあった。(例:ブルデューやフィッシュ)
著者もそのように考えており、また、人=クローンと捉えている。
よって、ヘールシャムの教育によって思考の枠ができてるクローンらは、それが自然だと誤認しており、逸脱するような事は思いつきもしない。
クローンらが空想するのは、生の可能性を想像空間に広げる事だが、これは結果として現実の運命を変える(超越的視座をもつ)機会を奪っている(運命を受け入れる選択をしていることになる)

 

信念は「選べないし、捨てられない。拒否もできなければ、検討もできない。」byフィッシュ

 

「『わたしを離さないで』の暗黙の了解」武富利亜
クローンらが現実を薄々わかっていながら、空想することや、提供の確信的な部分に触れず(一線を越えようとしない)、そのはっきりしない状況の中に希望を見出し共有する事は、彼らが死を遠ざけて生きたいと考えていることの現れ。
空想をやめた時に、キャシーは死を受け入れた。

 

誤解は、長い間放置しているといつのまにか、当たり前になってしまう

 

人間はときに白黒つけたがるものであり、それは自然の摂理である。しかし、「教えられているようで、教えられていない。だから、教えてあげる」と考えるのは、罪の意識にかられた人間のエゴである。クローンの子供たちにとって、はっきりさせることは死の宣告を受けるのと同等なのだ。

『わたしを離さないで』には、このようにはっきりとしない状況の中に幸せや希望を見出そうとする子供たちが描かれている。

好きな漫画の『YASHA』(…これもクローンの人権に関わる話なのだが)のクライマックスで、これとそっくりなことが語られる。

確かにそこでも、「救うため」と他者に暗黙の了解を破られた人物は絶望し、更なる悲劇を起こしている。

公共の秘密にしても暗黙の了解にしても、それらを明るみに出す事は状況打開の方法になると思うのだが、それが良いことのはず!と思っていた自分にとってこれは耳が痛かったなぁ。

 

「『わたしを離さないで』を語り継ぐ」菅野素子
映画、舞台、ドラマ版のそれぞれの演出や設定、構成の違いに言及し、小説をそのままクローン化する形では翻案作品を生み出すことはできないと述べている。

 

 

ここまで読んでくださりありがとうございました!

 

 

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