『草の花』感想
福永武彦『草の花』
お勧めされ、またサナトリウム文学が読みたくなったことを機に、初めてこの作家の本を読んだ。
美しく、純文学らしい純文学を読んだと感じた。
俗な言い方をすると、えもい 文や台詞が非常に多く、良い意味で一気読みするには刺激の強い下りがあった。久しぶりにこういった良さで息がつまるような読書体験をしたな。
p15 「君はよくそんなに平気でいられるね、」
「僕の精神が生きている限りは、僕という人格は僕のものだよ。」「肉体は泯びるさ、そんなことは分っている。分っていらからこそ、僕は僕の精神を大事にしたいのだ。君だってそうだろう。」
「しかし君、肉体が少しずつ参って行くのを見詰めるのは、耐えられないじゃないか。肉体が死んじまったら精神もへったくれもないんだから。」
「それを見詰めるのはが生きていることだ、」
「僕も昔はそうだったよ、」「しかし僕は僕の感受性を殺してしまった。感受性、というより、僕は自分の魂を殺してしまった。僕は君が羨ましいよ。」
p26 生きるということは、自己を表現することだ、自己を燃焼することだ、精いっぱい生きるためには、自分の感情生活をも惜しみなく燃焼させなくちゃね。
p36 僕等のように芸術家でない人間にとって、人生は彼が生きたその一日一日と共に終っていくのだ。未来というものはない、死があるばかりだ、死は一切の終りだ。…生きるのではなく、生きたのだ、死は単なるしるしにすぎないよ。
汐見の言う人生はマクベスの言う人生(昨日という日々は阿呆どもが死にいたる塵の道を照らし出したに過ぎぬ)と同じ気がする。
しかし、死は人生を運命につくり変えるというじゃないか。
英雄たちはそういうふうに死ぬだろう、が、僕は英雄じゃない。
洗礼を受けて後悔した汐見は、望むものは違えどスタヴローギンに似ている。その後恍惚感を伴う精神世界のような夢を見るところまで。
この本は汐見の過去を書いた手記がメインなのかもしれないが、私はその導入「冬」の章が一番好きだ。
うっとりするような美しい文で、刺さる文章が綴られている。
汐見の何も暴かれていないミステリアスな姿が魅力的に映るためもあるだろう。
彼はこの語り手曰く、常に触れさせない孤独を周りに置いて、自分の病状の悪さを気にもかけず生に執着せず、落ち着き払って呆れるほど勇敢、そして自殺に似た死を迎える。それから後になるまで汐見が考えていたことを何も知らなかったと言われる人なのだ。そりゃ魅力的だろう。
サナトリウムで死の近くにいる人々のやりとりは強く生を感じさせる。
p102 共通の目的と訓練とを持った共同生活、その中で耐えられるような孤独でなくちゃ、本物じゃないんだ。卵の殻で自分を包んでいるようなひ弱な孤独じゃ、君、何ひとつできやしないぜ
p103 たとえ傷ついても、常に相手より靭く愛する立場に立つべきなのだ。靭く人を愛することは自分の孤独を賭けることだ。たとえ傷つく懼があっても、それが本当の生き方じゃないだろうか。
p106 自分で自分を傷つけちゃいけないよ。君が本当に成長し、君の孤独が真に靭いものになれば、君は自分をも他人をも傷つけなくなるのだ。自分が傷つくような愛し方はまだ若いのだ。
与えられた場所で生きられない人間は、何処に行ったって生きられないよ。
表面上汐見が言ってる理由への意見なら適所適材だと反論したくなるが、その本質でもっと根深い、変わらない破滅的な性質を変えないことにはどこにいっても幸せになれない、の意だとしたら納得する。
p125の、人は肉体に死んだ時一度めの死を、知る人が皆死んだ時二度めの死を迎える、という人は二度死ぬという考え方はどこかの名言で見たことがあったが、この頃にも口にされていたことなんだな。
手記を読んで思うことは、汐見が「冬」で感じたよりもずっとずっと人間臭く、自己に拘って内向的であり、純粋だったことだ。これは意外だった。
人間と愛に対して完璧主義すぎて(後書きでは「潔癖」と表現されていた)幸せになれなかった男の話だったと思った。
孤独だって、定義づけしてそれに従う必要などどこにもないのに。それを信じて矜恃とすることは、美しくも見えるし、子供じみても見える。経験したことがあるのでわかるけれど思春期特有と思える考え、純粋すぎる考え、そういうふうに映った。
自己の精神世界に閉じこもって、その共有できない理想を追っていたのだろう。それが自己で完結するなら良いのだが、彼の場合他人にその具現化を求めてしまうから、いつまでも満たされることがなくて悲しいのだと思った。
思うに彼は、精神世界の持ちようや理想が彼と同じような人と出会えれば、それぞれ持つ精神世界は似て否なるものであっても、それなりに分かり合え、孤独を埋めあえたのではないかと思う。
p149 あの時は何だか死ぬんじゃないかと考えていた。もしああして死んでいくんなら、汐見さんを愛することが出来るような気がしていました。
船の上での藤木との二人きりの時間の描写は濃密で美しい。それこそ思春期的とも言えるのだけど、性を感じさせず、精神だけ、けれどそれが陶酔感を伴うくらいに濃厚。
ブロマンスの醍醐味と思えるようなシーンだった。
藤木は愛される責任が重荷だと言う。彼の考えは非常にわかる。だからこそ終わりがすぐ見えていれば愛せるというのも。
p179
あたしたちがあの曲を今晩一緒に聞いたから、それであの曲がもっと素敵なわけなのよ。
それは、音楽を本当に愛するということじゃないよ。
いいの、それでも。あたしこれからあと、ショパンのあの曲を聞けばいつだって、あああれは汐見さんと一緒に聞いた曲だって思い出すわ。そうして今晩のことを思い出す限り、あの曲はもっとあたしに身近な、大切な、二つとない音楽になると思うわ。
音楽を愛するものからは彼女のような感想を残念に思うこともわかるし、条件付けによって付加価値をもち、より大事なものになるという良さもわかる。
全編通じて、精神的な議論のパートが好きだった。
後書き曰く、「汐見は夢を見ることのできない人で、それを夢見る人だと誤解されたことで、彼を愛する者たちは彼を愛しながら去って行った」ということだ。
これは半分同意、半分違うと思う。
確かに都合のいい空想に満足して生きることができないという意味では「夢を見られない」が、他人に理解のできないものだけに拘っていることは、実体のない、一人にしか見られない「夢を見ている」と言って問題ないのではないか。
おまけ、
えもと精神世界のブロマンスとして船のシーンと近い陶酔感を味わえると思うのは以下の作品
これらはさまざまなメディアで出ている作品だけれど、それを味わえるのは以下の媒体、巻数だと思う。